日詰遺跡レポートには、南伊豆町と下田市から発掘された70カ所の遺跡について記述があります。
この狭いエリアに70もの遺跡があるが驚きです。そこで、まず自分が住む弓ヶ浜(湊地区)周辺の遺跡を実際に歩いて当時の人々の祈りを感霊する旅をしたくなりました。
まず最初のパワースポットは、目の前の弓ヶ浜海岸の左端にある砂丘にあった天神遺跡です(写真上)。
自宅から一番近いのですが、日詰遺跡レポートに書いてある「天神、テンジン」という旧地名が地元の人々に聞き歩いても誰も知らず、最後にあった老漁師から初めてその名前が出てきたのでした。どうやら天神とは古い漁師だけが使った地名だったようです。
この天神遺跡からは、奈良時代(710年~)から平安時代(794年~)にかけての土師器が発掘されました。現在のホテルまる文の下の海岸で高いヤシが10本くらい植わっているところです。
毛倉野の陶芸家の渡辺隆之さんの見解では、土師器を作るには非常な高度な地質学、粘土学、化学、燃焼学が必要で、たぶん朝鮮半島から仏教伝来と一緒に最先端技術を持ったスペシャリストたちが飛鳥京や平城京で製陶したのではないか・・・ということでした。
ということは、当時の人々が日常品として使っていた器ではなく、わざわざ京の都から取り寄せた貴重な道具を使って何らかの海の祭祀を行っていたと推定できます。漁師たちが大漁や航行の安全を祈ったのかもしれません。
現在でも、湊の動力船組合(漁師)では7月に逢ノ浜の龍権(りゅうごん)さんという祭祀を行っています。小さな漁村の簡素なセレモニーですがひょっとすると歴史はとんでもない太古からかもしれません。
弓ヶ浜周辺の古代遺跡の2番目はタライ岬遺跡です。タライ岬は弓ヶ浜の左側の地磯の先端で、日の出スポットとして有名です。沖には、大島、利島、新島、三宅島、うとね島、神津島が見渡せる絶景ポイントです。
現在は展望台の碑(写真下)があるところで海の祭祀が行わていました。当時は祭祀が終わると土器などを岬の崖下に投げ捨てたようで、崖下(写真上で釣り人が立っているところ)から古墳時代後期(500年代)の土師器、須恵器、手づくね土器などの祭祀道具の破片が多数出土しました。
写真上は弓ヶ浜漁船ジオパークツアーで撮影したものです。
タライ岬へ行くには、逢ノ浜からタライ岬遊歩道を上り30分くらい登ると到着します。弓ヶ浜からだと往復90分のハイキングコースです。
弓ヶ浜の古代遺跡の3番目はタライ岬遺跡のお隣にある遠国島(オンゴクジマ)遺跡です。
大正6年、田牛の遠国島から奈良時代(710年~794年)の土師器、須恵器などの祭祀遺跡が発掘 されました。陸(タライ岬遊歩道)からも渡れますが、岩肌を命がけで登る必要があります。
私は磯釣り(メジナとシーバース)で3回ほど渡ったことがありますが、島頂か らは利島、新島、神津島が正面にデーンと見えます。昔は祠があったそうですが、現在は何もありません。当時の人々は何を祈ったのでしょうか。
写真下は弓ヶ浜漁船ジオパークツアーで撮影しました。
弓ヶ浜周辺の4番目の古代祭祀遺跡は湊の下条遺跡(写真下)です。
弥生時代後期(紀元前70年)の弥生土器片、鉄滓(てっし=タタラ製鉄するときに出る鉄のくず)が出土しました。ここは土器の捨て場だったらしくタタラ製鉄もちかくにあり、かなり大きな集落だったそうです。今の湊地区センターの裏の梅乃屋さんの右奥の丘陵一帯で、当時は海面が高くここまで海岸線が入り込んでいたようです。
1kmに渡る弓ヶ浜海岸の砂は含有鉄分が多く古代製鉄に多く使われていたそうです。
この下条遺跡周辺で畑仕事をしていた方のお話によると、畑仕事をするたびに10円玉くらいの土器片が今でも出てくるとのことで、そのお話の最中にも「ほら、ここにも・・・」と地面に落ちている葉っぱ模様のついた土器片を拾って見せてくれました。(写真下)
弓ヶ浜周辺の5番目の古代祭祀遺跡は湊の大日山遺跡(写真下)です。現在の山田酒店の横の小山で、このあたりは旧名で上条と呼ばれていました。弓ヶ浜村の言い伝えで古代の漁師はこの大日山に船を係留したというのが残っているそうです。当時は海面が高く、少なくともここまでは海だったということです。
平城京や平安京からやってきた船が、南伊豆湊の入り江のこの高台を目印に入船してきて、日野の郡衙址「グンガシ」で積荷検査を受け、現在の青市まで租税(租庸調)の塩カツオの発酵汁(魚醤)を受け取りに行っていたという記録が出土した木簡にあったそうです。
たぶんその頃にはこの大日山の波止場には多くの輸送船や漁船がもやいされ、古代の海洋都市として殷賑を極めていたと思われます。
私が聞いた村の長老たちの言い伝えと一致します。
弓ヶ浜周辺の6番目の古代祭祀遺跡は湊の日野遺跡(写真下)です。現在のセブンイレブン前の丘陵斜面です。
伊豆諸島考古学者の橋口尚武氏の学説によると、ここから発掘された奈良三彩の小壺蓋は平城京(西暦710年~794年)で作られたもので、これは日野で国家的規模の祭祀が行われていた証拠で、伊豆半島賀茂郡の郡衙址「グンガシ」(郡司が政務にあたる正殿・脇殿のほか、田租・正税出挙稲を保管する正倉、宿泊用の建築)であった可能性が高く、近くを流れる青野川下流の潟港(湊地区、手石地区)は東国経営に欠くことのできない要港であったはずである・・・とのことです。
西暦700年代、どうやら弓ヶ浜は古代の海洋都市として殷賑を極めていた感じです。
日詰遺跡レポートで記述があった遺跡が、現在地名でどこにあったのかを古地図で調べたり、村の長老や現場近くの住民にヒアリングしながら、日頃見慣れた郷土の風景を探索するのも実に愉しいものです。
7番目の古代祭祀遺跡は湊のミカノセ(美加奈志)遺跡です。ここの丘陵斜面から弥生後期(西暦100年前後)の弥生土器、古墳後期(西暦500年代)の土師器、須恵器が発掘されました。現在のファミリーマート横の河川敷周辺です。(写真下)
弓ヶ浜周辺の8番目の古代祭祀遺跡は手石の十二叟(ジュウニソウ)遺跡です。ここから、古墳時代(西暦200年以降)の鉄滓(鉄のかす)やタタラ製鉄跡が発掘されました。現在の手石区民センター裏の青龍寺周辺です。(写真下)
以上8カ所の古代遺跡が弓ヶ浜周辺の実に狭いエリアから集中的に出土していました。
さらに、冒頭に述べましたが、日詰遺跡レポートには、南伊豆町と下田市の70カ所以上の古代遺跡について記述があり、海の祭祀遺跡、山の祭祀遺跡、たたら製鉄跡遺跡が全国の遺跡スポットに比べて異常に多いことが指摘されています。
そして、遺跡探索をしていくうちに疑問が出てきました・・・
鉄分を多く含む砂浜が多く、製炭に欠かせない森林が多い南伊豆にタタラ製鉄跡が多いのは分かるけど、じゃあ、なんでこうも祭祀遺跡が多いの?
伊豆半島の最南端になぜ古代祭祀遺跡が集中しての?
次のブログで考察してみたいと思います。
南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅3(白浜神社遺跡)に続く
南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅1(日詰遺跡~洗田遺跡)はこちら